過程

#0 ”普通”とは一体何か

過程
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生きていると必ずと言っていいほど聞いているであろう

普通

というこのワード

学校、家庭、友達

様々なところでそれ・・であれと聞くことがある。

辞書の言葉を借りるなら、

・その類のものとしてごく平均的な水準を保っていて、

取り立てて問題とする点が無い(良くも悪くもない)こと(もの・様子)

引用:新明解国語辞典第七版

というものだ。

貴方は、

日々に飛び交うこのワードを聞き、

一体を思うだろうか。

”普通”という言葉の破壊力

学校で言われた”普通”

僕は、小学生のある時普通にしなさいと教えられた。

ADHDであった僕は、

当時から何か人と違うなと思う事が多かった。

それは、今は自分で何となく分かるものだが

当時は周りにそう言われる事が多かったから自覚したものが多い。

普通にしなさいと、様々なところで言われた。

当時の僕は、

みんなで参加するイベントのようなもので

全体で話を聞いたり、作業をするとき

とてもそわそわして落ち着かない。

今例えるなら、

三秒前に言われた事が一瞬にして吹き飛び

新しく入ってきた目の前の情報に目移りするようなもの

運が悪いと、

それは反射的に行動に出てしまう事もあった。

当時悪気も無く繰り返されるこの行為は、

人に叱られる大きな要因となり、

僕はよくいろんな人に叱られながら育った。

正直、僕は至って”普通”にしているつもりなのに

普通にできないの?

と言われても、

そんな事言われてもなぁ

としか思えなかった。

それでも、

怒られることは嫌で駄目な事だと思っていたから

いつの間にか僕は

皆に怒られない”普通”を目指した。

”普通”が求められる時期

イジメ空気

言わばその場の総意から生まれるものだと僕は思う。

誰か地位のある子が発した意見から

その場の絶対的な総意が生まれ、

全体は自分の考えに沿おうがそうでなかろうが

必死にそこに合わせようとする。

決してそこから外れてはいけない。

何故なら、

その総意こそがここでの”普通”で、

それから逸脱したものは

もれなくイジメの対象者となるからだ。

グループ内で

1人が仲間外れにされた時、

良くない

と思っている人が半数を超えていても

その子がグループ内に参加出来るとは限らないのと同じだ。

その場の”空気”があって、

そこに合わさってしまう事も数少なくないのだ。

誰しも感じた事にあるこの時期は、

みんなして、普通=全体の総意(空気)を目指しがちなのである。

こうして、

人はいつの間にか普通を目指していて

普通じゃないものを悪とみなすようになっている。

しかしここに、本人の意思は無いのではないだろうか

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普通は善か悪か

上の通りでいうなれば、

普通に生きる事に本人の意思は無く、

それは悪だろうと思うのが自然かもしれない。

自分で考え、自分の心に従い、

そうゆう生き方こそが善である。と言わんばかりに。

しかし、

こんなところで終わらないのがこの問題だ。

例えばその子にとっての心の声に

は殴って傷つけてもいいもの

とあるから、その通りにすればいい

…これには僕は賛成できない。

僕からしたらそんなの普通じゃない!!

と言っても、

本人からしたら悪意のない”自分の中での普通なのだろう。

これが実際に僕が言われていた

普通にしなさい

と何ら変わりないとしたら、

その”自分の中での普通”は

守られるようなものでは無いと思うから

こちら・・・になるわけで、

どちらが善で悪かとは簡単には言えないのである。

自分の中の普通とは偏見の集まり

それでは、

”自分の中の普通””世の中の普通”と違う場合、

一体何を信じればいいのだろうか。

僕には当時、理解できない普通が多かった。

友達を大切にする。

とか、そんな大事な事さえ正直よくわからなかった。

どうしてこの人はこんなに無償に相手に何か出来るんだろうとか

僕には分からなかったが、

疑問は常に湧いていた。

いつも、

”自分の中での普通”が変わるときは

自分の中での納得が傍にいた。

お母さんに昔からよく言われることがある。

折角近道を教えているのに、貴方はいつも遠回りをしている

…僕は正直、遠回りこそが正解だと思う。

世の中の普通に無理に合わせていくのは間違っている。

これは、本能的に分かるが

自分の中での普通が間違っているのだとしたら

それは自分で気づいていくしかない。

僕等が信じるべき普通は、

自分の中にある”普通”なのだが

それは、今まで出会ってきた経験の偏見の集まりに過ぎない。

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有意義に過ごす解決策

いわゆる

”自分の中での普通”が間違っている人の場合、

それに気づくには

本人が納得し、気付く他ない。

他人に言われようが想像すらできないものだからだ。

僕もそうやって少しづつ、

自分の中での普通が変わっていったように思う。

そして気付くには経験することが何より有効だろう。

実際の経験でも、漫画でも本でもyoutubeでも。

そうやって経験を増やしていくことが何よりも大切なのかもしれない。

大人がそれに気づかせてあげるには、

僕等が正しく、

自分の行動で教えてあげるというのが

子供の耳が痛くならず、

エゴの押し付け合いにもならない

簡単な解決策であろう。

P.S. コンビニ人間

普通とは何か

をテーマにした芥川賞を受賞した小説に

「コンビニ人間」

というものがある。

”一般的な普通”とはかけ離れている思考を持つ主人公の女性が、

コンビニの店員としての”普通”を得る事で

社会的に馴染もうとする話なのだが、

主人公の”一般的な普通”が理解できないという気持ち

とても鮮明に分かりやすい表現で書かれていて、

当人さえ忘れていたあの分からないという感覚を思い出させてくれた。

比較的短く、難しい表現も無い為

とても読みやすい。

読みやすいが、登場人物の思考に追いつくのがとても大変だった。

分からないという感覚を知れるので

子供の気持ちに寄り添えるきっかけになるかもしれない。

この際、読んでみてはいかがだろうか!

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